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今日も安定の寒さ。何故なら冬だから。指が上手く動かないのも、そう、冬だから。

ふざけているような具合ですが、わたくし今、いたく傷ついております。

 

今日は言葉の成り立ちについて考えてみました。そう、文字オタクだから。聖書の初めには、まず言葉ありき、と書かれているはずなのだけど、じゃあ一番初めの言葉とは何ぞやな、と考えてみるのですが、矢印とかではないかな、と思っています。それ、文字やなくて記号や、というご意見はまぁ、収められよ。友好関係は笑顔で伝わるはずだし、まぁ、要するに感情は、顔の表情で伝えられるのだから、あとは、言葉があった方が楽だぞ、ってことで、何らかの言葉が生み出されていくのだろうと思うわけです。では、いついかなる時に必要か。ちょっと待て、とか、必要ですね。こっちを向いてほしい、とか、あれをしてほしい、とか、犬や猫に照らし合わせると、ごはんちょうだい、それはいや、こっちに来て、などが代表格です。要求、拒絶、がこれらに含まれますね。大好きだよー、みたいな感情は、わざわざ音を発して伝えませんね。犬だったら尻尾を千切れんばかりにふる、とか。体で表現できるし、そもそも言語化させる必要がなかったのだと思うのです。じゃあ、感情表現の中で、先に発達したのは、おそらく怒りや制止、要求の言葉でしょうね。歓喜、これはあとかも知れません。体で表現できるから。怒りも、唸れば済むので、あとかも知れません。そう考えると、一番先に発達したのは、おそらく要求でしょう。要求の後に発達したのは何か。感謝、だったらいいですね。感謝まで行かなくとも、満足である、程度が伝われば、戦いにはならないわけです。じゃあ一番後に発達したのは何でしょうかね。言葉での攻撃、これではないかと思います。明確に、言葉で、相手を傷つける、という方法ですね。否定、はもっと先にできた言葉ではないかと思うので、これが発達して、意思決定の否定、ではなく、それを発する相手の、考えその物、ひいては、相手そのものを否定、と発達したのかもしれません。人間は、両手が使えたからここまで発展した、というのは、まぁ世界史で習うところの最初なわけですが、言葉も大きな役割を果たしたのは間違いないでしょう。それとともに、大きな混乱を招いたのも、きっと言葉だと思います。嘘と真がありますからね。真実の言葉なのかどうか、判断できないわけです。

自分の中にある考えを整理する、という点でも、言葉は重要な役割を果たしています。弁証法は便利なものです。言葉がこの世にある、と知らずに生活していた人が、この世にはすべての物に名前があり、言葉を使って人々は意思疎通をはかる、と知った時の驚きは、絶望に近いそうです。個人差はあるのでしょうが、これは多く、耳が聞こえない、目が見えない、という二つを身体特徴として有している人に多いそうです。こう考えれば、何より大事な言葉は、固有名詞、かもしれません。感情は、伝えられるのだ、と知った人の感動も大きいでしょう。これは伝達の為の道具なのだから。

 

まず言葉ありき。如実にこれを表すものがあります。言われなくなった、使われなくなった言葉は、消滅します。それを指す言葉が消滅した、ということは、それを指し示すその物がこの世からなくなった、ということです。死語。言葉も死ぬのですね。竪穴式住居。無くなりましたね。でも復元されて残っています。歴史の一つとして、この言葉が消えることはないでしょう。しかし日常的には使わない。ナウなヤングがボディコンを着ている情景は見なくなりました。言葉は、死ぬのですね。

 

話は変わりますが、わたくし今朝、リツイート機能、というものを、非表示にできないものかと奮闘しました。タブレットでやろうとすると、どうもその設定が出てこなかったのです。困りました。私は、リツイート、と言われるものを見たくなかったのです。しかし目にすると、ああ、私はこの記事で間違いなくメッタメタのぎったぎたにされるのだわ、と思いながらも斜め読み程度には目に入れてしまうのです。時には、わかっていながら、そのページにわざわざ飛んで昨日飾ったばかりの花が枯れてしまった時のような気持ちのままにそのページを流し見たりして、案の定傷つきます。マゾのようですね。しかし、その行動を自戒できないのです。良く見かける言葉です。嫌なら読まなければいい。もちろんです。わざわざ読みに来たお前が悪いのだ。もちろんです。なにも自分から、相手の方の承認欲求を満たしてあげる必要はないのです。顔も見ない、名前も知らない、生きているのかどうかも分からない、そんな相手にめっためたのぎったぎったにされに行く方がどうかしています。でも、見に行ってしまうのです。あほう。

大丈夫。今は無事に、非表示にできました。泣くほど安心いたしました。

 

まずはじめに言葉があった時。要求、拒絶。これらが先に発達したのではないか。そう先に申しあげましたね。では、攻撃。これは、後のことだと思いたいのです。便利だから使うのです。これを使うと便利だから。ときに相手との間に争いを起こさずに済み、両方の折り合いをつけられる。これは便利です。戦いは失うものが多いのですから。では、攻撃は、何の為に行うのでしょうか。傷つけること即ち攻撃、ととるのは短絡的な場合もあるでしょう。しかし、何かを否定し傷つけることで、自分の中で溜飲を下げることができるなら、これは攻撃でしょう。怒りをどうにか収めたいので、言葉という見える形にしてスッキリしたい。これはわたくしにも覚えがあります。誰も見られない鍵付の日記に、罵詈雑言どんなにしたためたとしても、誰も見ないのであれば、そう思うこともまま、あります。見苦しいことに変わりはありませんけれど。怒りとは、何とも短絡的な物です。それ自体に酔うことがある。怒りという興奮材料に酔わされて、何か自分が、とんでもなく崇高なことを、これ以上ないほど正しいことを心に思い描いている気になる。自分は正しいことを言っている、と怒りがわくのであれば、それは酔いの内なのでしょう。

 

言葉はね、自分に帰りますよ。誰かを馬鹿にすれば、言葉そのものではなくとも、形を変えて自分に帰ります。自分で発したものが、どうして自分に帰らない道理がありますか。自分は正しいのだ、だから相手が悪いのだ、だなんて、悲しいことに言葉を使うのは、何故でしょうね。こういう理由でこれが悪いのだ、だから私は怒っている。お前は反省してしかるべきであり、傷つけられた私は被害者である。思ってしまいますね。怒りの本質は怒りにないのではないでしょうか。傷つけられ、大事に扱われなかったことが悲しかったのなら、それを怒りで伝えては、伝わるものも伝わらないのではないかと思います。究極はガンジーですけどね。怒りは暴力ですから。

 

攻撃は、最後に発達したのではないかな、と考えました。便利だから、ではなく、使いこなせたから。この人がこう発言しているということは、こう考えているということだ。それを明確に言葉にしてこの世に表してしまったのは、他の誰でもない、こう考えているのだ、と導き出した方でしょうね。自分の中にそのような考えがある、と露見させていることに、信念があるなら良いのだけれど、否定している信念ならば、この世に出さない方がよろしいかと思います。形にされた物を読んだことで、読んだ方の心にそれが生み出されてしまいます。無かったものも出現してしまうのです。意図的にそうとしてされていることならば、それは腹黒いと言わざるをえませんが。言葉の方でも、そのようなことに使われたくはないでしょう。離れていきます。生活から、心から離れていく。言葉も死にますからね。死んだ後では、新しく生まれ変わらせるのは容易ではないことのように思えます。ちょっとその辺にあるものを掴んで、ちょっと使って、乱暴に投げて返す。そんなような物かな、と思います。言葉の使い方が、悲しいですね。なにかの否定、攻撃、そんなことの為に使われてしまった言葉は、悲しいですね。それが自分に帰る。そう考えると、もう、哀れで居ても立っても居られない様な、だって言葉だって、何かを傷つける為だけに生まれてそこに帰るのでは、やるせないじゃないの。今は溜飲を下げたつもりでも、いつかきっと傷つく。そんなの、悲しいじゃないの。

 

見たくないな、と思ったのです。何かを否定して、攻撃して、すっきりして、自分が否定している物を肯定している人を、いっそ哀れむ姿は、本当に哀れ。いつかあなたに帰るのに。本当に、いつか、傷つくこの人は、本当に、なんて可哀想。そう思ったらね、どうにも悲しくて、傷ついて、馬鹿だなあ私は、と思った次第です。